退屈な日常、時々でんぱ系

日々を退屈に過ごす大学生の私が、誰にも話すことなく消化されていく考えや興味をあなたに伝えます

「自由」という押し付けられた不自由

自由って自分の気持ちに素直になれることなのかなと思う。ただし自分の気持ちにもう自由はないのかもしれない。人を傷つけたくない、その気持ちが1番であって、自分が何をしたいとかどう思うということは後から出てくる。けれど、素直になれないことよりも自由にしないといけないとか、これが正しいとかいうことの方が不自由に思う。自分の1番の気持ちも環境や経験、大きくみれば日本で作られ、統制された思考なのかもしれないが、それがもう自分になってしまった。

f:id:mirokusuke:20201030124411j:image僕らは作られたものの中で良いものを探す

多くの人が自由になりたいと言う。それは自分にあった生活や環境を望むことなのだと思う。自分に気に入らない人がいれば退けようとしたり、退いたり。嫌いなものは食べたくないし、食べなくていい。全てが思い通りになる。しかし、多くの人が自由を望み、自分の思い通りに動くとこが正しくて豊かな事だとして進んでいけば、お互いに干渉しあって最終的には少数の人しか思い通りにならない。妥協してその中で自由をさがす人もいるし、不自由に苦しむ人もいる。これは自由なのだろうか。思い通りになることも豊かなことも良いことだと思うけれど、それが正しいという考えは統制されたものかもしれない。日本は思い通りにならないことが正しいという統制であったけれど、最近はそれが変化してきたと思う。それが良い事なのか、悪いことなのか自分には分からないと思った。

f:id:mirokusuke:20201030124953j:image青信号は自由だろうか


今の自分は自由が不自由であるけれど、自分が素直に変化を望んだ時に変化したいと思う。そうでないと自由でないから。