退屈な日常、時々でんぱ系

日々を退屈に過ごす大学生の私が、誰にも話すことなく消化されていく考えや興味をあなたに伝えます

好き、嫌い、好き

人は変化するもの、それぞれ違う時間、感性、環境、多くの意識によって絶えず変化し続ける。昔まで食べると吐くほど嫌いだったトマトが最近食べられるようになった。どうして食べられるようになったかはわからない。今まで食べられないと決め付けていただけかもしれないし、味覚が変化したのかもしれない。自分の中で起きた変化はよく分からない。それでも確かに言えることとして、食べようとしたきっかけが生まれたことが自分がトマトを食べれるようになった理由だと思う。1人で生活していたらまず食べないし、外出しないと食べる選択肢に入らない。僕は大学生になって初めて彼女と呼べる人ができた。彼女もトマトはあまり好きではないが、彼女と外食に出かけるとたまにトマトが出てくる。小さなサラダの中とかに。付き合い始めてもうすぐ6ヶ月だが、5回くらいトマトと対面した。最初は飲み込むのがやっとだったけれど、だんだんと慣れてきて大丈夫な気がしてきた。嫌いではあるけれど、吐くほどではなくなった。彼女と出会っていなかったら、トマト嫌いは一生変わらなかったかもしれないし、もっと遅れて訪れたかもわからない。誰かといた自分と、いなかった自分。どれだけの違いがあったのだろう。トマトに対する変化はちっぽけに見えて僕にとっては大きい。中学生の時に自分がいかにトマトが嫌いかについて作文を書いたほどには嫌いだった。僕は10年後どうなっているだろうか。今の自分は何が残るだろう。生まれたての自分には何があったのだろうか。今を作るのは過去?それとも現在?トマトは食べられるようになったけれど、嫌いな食べ物を聞かれたらトマトと答える。嘘ではないけれどホントでもない。ただそこに固執する必要もないと思った。トマトが嫌いな理由はただ実家のビニールハウスのトマトの青臭さが強烈だったからである。きっかけは日常に眠る密かな異常で、実は取るに足らないものかもしれない。その中で形成されていく自分に愛着を持てるようになりたい。愛着が持てるような自分に変えることもできるかもしれない。その為には今の自分を受け入れないといけないとも思う。緩やかな時間が忙しく過ぎて、明日が迫ってきても何か一つ自分の変化に気付けたなら、前進できる気がした。

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